思い出は涙色

 

さっき“懐かしい人”からLINEが来ていた。

 

懐かしい人なんて言うには、その人に対する気持ちや記憶があまりにも鮮明だけど

彼がそう言うなら私たちは懐かしい人同士なんだろう。

 

あんなに心を傷つけながら距離を置いたのに、あの人はこんなにも簡単に私に連絡を取って来たことが悔しくて、怒りが沸いて、それと何だかとても悲しかった。

 

泣きたくなった。

 

それぐらい、あの人のたった数文字のLINEに感情を揺さぶられてしまって、アプリを消したりなんだりウロウロしていたら、バックアップが破損していて、あの人も含め、どうでもいい人と、大切な人とのLINEのトークが失われてしまった。

特に家族と、故人ののLINE履歴がなくなってしまって(PCからある程度までは遡れるが...)本当に本当に悲しくて泣いた。

あんな男の言葉に振り回されて、もっと大切なものを失ってしまったのだった。

今回のデータだけでもない、私はそういうことがよくあるのだ。

そんなバカな自分に本当に嫌気がさしてしまった。

 

先月、半年以上ぶりに家族と一週間過ごして、私にとって一番大切なものは家族だと再認識したのに。しっかりと優先順位を自分の中で確認したのに。

 

いつかはLINEのバックアップ だって、トーク履歴だって失うだろう。喪失が人生だから。でも私はそのことに悲しんでいるのではなくて、ただ一瞬でも私を大切にしない男のために時間を使い、行動し、その結果不利益を被ってしまった自分に、そんな馬鹿な自分がいまだに自分の中にいることが、悔しくて、怒りが沸いて、とても悲しかったのだ。

 

 

Très haut amour.

Pourquoi donc pensons-nous et parlons-nous ? C’est drôle: nous larmes et nos baisers, eux, ne parlent pas et cependant nous les comprenons, et les pas d’un ami sont plus doux que douces paroles.

 

いったいなぜ私たちは考えたり喋ったりするのだろう。おかしなことだ。

私たちの涙や接吻、これはしゃべりなどしないのに、それでいてその気持ちはよくわかるし、恋人の足音は甘い言葉よりうれしい。

 

On a baptisé les étoiles sans penser qu’elles n’auraient pas besoin de nom, et les nombres qui prouvent que les belles cométes dans l’ombre passeront, ne les forceront pas à passer.

 

ひとは星にまで名をつけてしまった、彼らは名前など必要としてないことなんて考えもしないで。美しい彗星は、彼らが闇夜に通る時刻を明らかにして見せる数字のためにわざわざその姿を表すわけでは無い。

 

 

Il va neiger... à Léopold Baudy

Francis Jammes

 

 

 

手紙

 

あなたへ

 

あなたと出会ったとき、私は履き慣れないピンヒールに足の指を痛めながら、肌に刺さる冬の冷たさに胸を躍らせていました。その頃のあなたと私は、ただあーだこーだと話をしては驚くべき速さで終電の時間になってしまうのを不思議に思いながらタバコの香りのする喫茶店で逢瀬を重ねていましたね。ちょっと恥ずかしいのだけど、初めて会ったとき私は確かにあなたにキスをしてみたかった。それからだいぶ経って、私とあなたは恋人という関係を始めたね。暗いワンルームの部屋でMacBookの小さな画面に流れる映画を見ながらあなたの作ったチーズリゾットを食べるのはなんて言う名前の幸せだったんだろう。それから時は流れていって、だんだん私たちの会話は噛み合わなくなっていった。何が変えてしまったんだろうって考えたけど、私とあなた何方とも、何かが徐々に変わってしまったんだろうね。こんなにも一緒に時間を過ごして、生活を共にしたのに、徐々に歯車が噛み合わなくなってくるかのようにお互いの目線は合わなくなって、繋いでいた手は空気を掴んでいった。そんな空気の中でも私たちは重ねた時間の重さを責任として認識して、離れた手を無理やりくっつけようとした。けど、もう私にはこの手は窮屈です。ごめんなさい。他に好きな人ができました。あなたの目も、手も私にはもう合わなくなってしまった。あなたもそうでしょう?

今まで、ありがとう。さようなら。

 

 

(599文字/10分)

 

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ふと思い出したのでやってみた。こういう粋な受験問題は好きだけど受験生にとってはただの地獄でしかないところが面白いなあ。

 

 

好きでも嫌いでもないなら何なの

 

気絶してたらあっという間に10月も終わりで、私はいつも何かに追いかけられてて、私自身も何かを追ってて、休む暇もなくて心が何だか忙しない毎日だった。

 

人生をどれだけ無視すれば満足できるんだろう。自信が持てるのだろう。追い越せるのだろう。そんな淡い希望と不安が胸の中でマダラ模様に広がっていて、心はいつも曇天で。私は私でしかないのに私にしかならないのにいつだって自分以外の何かになりたくて苦しんでいる。

 

『好きとか嫌いとかじゃないんだ』ってじゃあ何なんだろう。無関心でもないなら、好きでもないなんてよくわからない。そばにいれば触れたいと思うのが恋なら寝入るあの人にブランケットをかけてあげることが愛らしいけど、よくわからない。みんな本当に自分の意思や感情に自信をどうやって持っているんだろう。そんなに白黒はっきりさせられることがどんなに少なくて、むずかしいか、私は痛いぐらい知ってるつもりだった。

 

人の受け売りで生きたって楽しくないでしょ。

 

おやすみなさい

思考の整理ー09.17.2019

“例えば、好きな人ができたとしましょう。そのとき、もしその人の容姿がいいということで好きになったのなら、容姿がよければ他の人でもいいということになります。容姿端麗で優しくて仕事ができるからというのであれば、代わりになる人はあまりいないかもしれませんが、同じような人が全くいないわけではないでしょう。一般に、ある特徴を持っているから好きだということであれば、その人以外にもそのを持った人が現れれば。その別の人で代わりになるわけです。

 

それに対して、ある人をその人のもっている特徴で好きになるのではなく、まさにその人がその人だからというただその一点だけで好きになったとき、それは「かけがえのない」人になります。あなたはその人が好きなのであって、他の誰かでは(その誰かがどのような特徴をもっていようとも)だめなのです。それが「かけがえのない」ということです。”

 

かけがえのなさは、動物にはない。かけがえのなさという言葉を代替不可能なものとして言い換えればよくわかる。飼っている猫やウサギも、たとえ彼らに好きなエサがあったとしても食べることが出来ればそれでなくてもかまわないのだから代替可能だ。飼い主に対しても、愛着はあるかもしれないが代替不可能ではないのだから、かけがえのないものではない。かけがえのないものというのは、人間にしかないものだ。でも、私たちの日々の生活の中でかけがえのない“人”を見つける、わかることはほぼないと思う。代替可能な人はこの世の中にいないとしても、自分がその人の何が好きで何を魅力的に思っているから好きだと明確に、はっきりとわかる人はいるのだろうか。私はいないと思う。そんなはっきりしたものではなくて、人への好意は常にあいまいな輪郭をもったものであり、その積み重なりだ。グラデーションだ。

 

“Cʼest le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.

きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ”

 

かけがえのなさーという文字列をみたときに一番に思い出した。

星の王子さま。はじまりとおわり。

 

“好きになった人を嫌いになってみたり、また好きになったりしながら、僕らは結局、自分自身を喜んで受け入れられるような生きる形を、この世界の中に見つけていくんだと思う。自分を愛さなければ、人を愛することもできないが、人を愛さなければ自分を愛することもできないのが難しいところ。”

 

人と人の出会いの中で、自分のなかの意味が再編成され続けていく。何かに興味を持ったり、何かを嫌いになったり、はたまたそれが生きがいになったりする。そうして自分自身が再編成されて、成長していく。それが負でも、成長には変わりがない。人に色づけられたり、色づけたりしながら自分の色を模索していく人生なんだ

 

 

 

 

 

ハイジ

 

“自分が自分でいることと、他者に否定されること、どちらが本当につらいんだろう、どちらが本当に苦しいのだろうね”

 

たぶん私は左の道を選んだ。だからずっとずっと右の道を選んだ人がうらやましくて、憎らしくて、心底惹かれてしまうのだろう。

 

どちらの道も苦痛が伴うことは知っていても、ないものねだりの僕たちはいつも向こう側の眩しい光を心から欲するんだ

 

 

 

2016年11月のメモより

 

 

何かを得ることが何かを失うことと同義なら、私はどれだけ見えないものを抱えた腕から落としてきたのだろうか。

 

いつから映画を見ても心が震えなくなったのだろう。音楽を聴いても焦燥感に駆られるようになったのだろう。手に取った本を読むのに脳内でこんなことをしている場合じゃないって誰かの声が反芻するようになったのだろう。それは紛れもなく“私”が手に取った本なのに、その声もまた“私”のものだった。

 

景色が変わっても四季が変化してもその変化に気付かなかった。なくなったらしい建物の跡地をみてもそこにあったものが何かまったくわからなかった。最初からまるで何もかもなかったかのように思えた。思い入れのない場所やものが増えた。目にはいるもの全てから色がなくなった。蝉の声が聞こえなくなったことにも、紅葉が紅く色づきはじめたことにも、霜が降りたことにも気付かなかった。私はただ、生きるために社会に与えられた役割を果たす道具だった。受動的に、何も考えず生きることは徐々に自分が腐っていくこととおなじだった。ゆるやかであいまいな死が私を取り囲んでいた。コーヒーを買ってセブンイレブンから出ると足元にスズメが二羽、死んでいた。私よりよっぽど幸せな死だと、思った。