誤魔化し

 

誤魔化しながら人は生きている。

 

何かを常に、誤魔化している。

 

大人になればなるほど、歳を重ねれば重ねる毎に。

 

誤魔化して、どんどん鈍感になっていって次第にバカになる。

 

子どものほうがずうっと頭が良いと思うよ、それは知識とか教養とかそういうベクトルのものではなくて、好奇心、探究心、創造力、そういったもの。

 

歳を重ねれば重ねる毎に合理的になっていく私達はコンピューターにでもなるのだろうか?

 

眠る前に今日は何を誤魔化したかも忘れてしまうのに。

 

好きな気持ちを誤魔化して、嫌いな気持ちを誤魔化して、トキメキを胸の奥にしまい込んで、都合の悪い事実は頭から消して、私達は生きたい人生を、こうでありたい自身をコラージュのように切っては貼り、作り出しているのだ。

 

何も知らなかった子どもの頃のように、好きなものを好きと言い、綺麗なものを綺麗だと言い、愛を感じればありがとうと伝えられたらどんなにそれが恥ずかしかったとしても生きているということなんだと、思った。

 

好きだと思った。

 

 

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搾取

先月辺りに映画を観た。師が映画館で映画を観ることの大切さをあまりにも真剣に解くので、学んでいることにも繋がるし、時間が許す限り観ようと思ったのだった。その一週間ぐらい前にもBunkamuraで『僕らは希望という名の列車に乗った』を観たりもしてたんだけど。これも最高の映画だった。

映画館で映画を観るということに意識を置いて観たのは初めてだったかもしれない。観たのは『幸福なラザロ』。

 

ここからは観た直後のメモを抜粋+添削したものを貼る。物語が大体わかってしまうから、知りたくない人は見ない方がいいと思う。

 

事前知識なしで観に行ったのでかなり困惑した。率直に雰囲気がライフイズビューティフルに似ているなと思った。いつ崩れ落ちてもおかしくないような空気の中で行われる淡々とした日常。
皆がラザロを呼ぶ声がまだ脳の中でこだましている。
搾取される小作人の人々からでさえも搾取されるラザロ、そんなラザロを友人、兄弟と呼ぶタンクレディ。それまで受動的だったラザロがタンクレディとの関わりによって段々と能動的になる(?)というのがとても心に残る。最後にはその善意で人々の憎しみを買い殺されてしまうのだが。ここはかなり寓話的なのかな。彼はタンクレディとの約束を守っただけなのに。
ラザロの美しい眼差しが深く胸に焼きつく。タンクレディの境遇に涙するラザロの横顔は鳥肌が出るほど美しく、胸が震えた。どうしてもその場面を瞼の裏に焼き付けたくて必死に観た。瞬きを忘れるというより瞬きをしたくなかった。あの横顔はまだ、残っている。教会で鳴る音楽がラザロを追いかける。たとえ人がラザロを拒んでも神は彼を追いかけるのだ。時間と時間をラザロが飛び越えたのは聖書の一節の引用だろう。現代社会の風刺にもなっている、それにしては綺麗すぎる映画だった。


以下Wikipedia


正教会非カルケドン派カトリック教会・聖公会で聖人。記念日は6月21日。エルサレム郊外のベタニアに暮らし、マリアとマルタの弟で共にイエスと親しかった。イエスは彼らの家を訪れている(『ルカによる福音書』10:38-42)”


“また『ヨハネによる福音書』11章によれば、イエスによっていったん死より甦らされた。ラザロが病気と聞いてベタニアにやってきたイエスと一行は、ラザロが葬られてすでに4日経っていることを知る。イエスは、ラザロの死を悲しんで涙を流す。イエスが墓の前に立ち、「ラザロ、出てきなさい」というと、死んだはずのラザロが布にまかれて出てきた。このラザロの蘇生を見た人々はイエスを信じ、ユダヤ人の指導者たちはいかにしてイエスを殺すか計画しはじめた。カイアファと他の大祭司はラザロも殺そうと相談した。(ヨハネ12:10)”

 

この映画を観て思い出したのは、まあ罪と罰はもちろんなんだけどカミュの異邦人だった。誰か共感してくれないかな。無心論者故に人間から裁きを受ける人間と人間に搾取され続ける神、彼らの吐く言葉は白いエクリチュールだ。

 

J’avais eu raison,j’avais encore raison, j’avais toujours raison.

 

 

 

自然国家とシニフィエ

人に見せるための文章と自分の思考を整理するための文章は全く作り方も意味合いも異なる、他人のためにトリミングされた文章よりも自分のために乱雑に並べた言葉の方が率直だし何より自分のためになるだろう。そういう意味ではこのブログはかなり自分のための文章、自分本位だなあ。

 

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今日は原美術館に行った。

『THE NATURE RULES 自然国家 Dreaming of Earth Project』という展覧会が会期中だったのと、2020年12月に原美術館が閉館してしまうから出来るだけ多く行きたいという気持ちと、坂茂の展示があるのと、何より“自然国家”という名前に惹かれて足を運んだ。原美術館はアクセスが絶妙に悪く、最近は蒸し暑さもひどくなってきたから億劫だった。

 

曇天で今にも降り出しそうな曇り空、日本特有の蒸し暑さを身に纏っていた。

 

韓国戦争ー日本では朝鮮戦争などと呼ぶがーでは約400万人の死傷者をだし、1953年に休戦となった。以降、大韓民国と朝鮮民衆主義人民共和国は全長248kmの軍事境界線を中心に南北2kmずつ、4kmの幅にわたる非武装地帯(DMZ/Demilitarized Zone)が生まれた。現在までに約66年間、交戦や挑発、境界線の変更や放火など事故が絶えず世界で最も軍事緊張度が高い地域の1つとなっている。

さらにDMZには約300万個以上の地雷が埋められ、人間だけでなく生息する動植物も危険に晒されている。しかし、70年近く手付かずで人が立ち入ることのなかったその地には5000種を超える豊かな生命が育まれている。人間の対立が生んだこの豊かな生態系をいかにして後世に手渡してゆくのか、生きとし生けるものすべての共生を願って崔在銀が立ち上げた『Dreaming of Earth Project』の構想を可視化した展覧会だ。また、自然国家とは人間ではなく自然が支配し治める国のことだという。

 

率直に全体の感想を言うならば、本当に素晴らしかった。残酷で退廃的で死の匂いすらする、それなのに宇宙のような自然の壮大さと不気味とも言えそうな力強さが混ざり合って不思議な雰囲気だった。

 

長い歳月を経てDMZに生まれた自然は壮大だ。

壮大な自然、それに対比するかのような人間の作り出した醜いものーかつてDMZに存在していた鉄条網やDMZ地下の鉄原トンネルーの冷たい文脈を如何にして変えるか。言い換えるなら平和と未来のためのリノベーションなのだろうか。国籍やバックグラウンドの異なる作家がこのDMZを舞台に人間という大きなくくりで未来を考える様に胸を打たれた。

 

 

美術館に入ってすぐの展示室にある曼荼羅は、中に入ることができる。竹で組まれたその構造体は、外側からでは一見何の変哲も無いが、内側から見ると上部に金の塗装がされていてキラキラ光った。幾何学模様のキラキラ光る構造体は薄暗い展示室では宇宙そのものに見えた。

 

 

隣の展示室にはDMZに存在していた鉄条網を撤去後、崔在銀が熱で溶かしたものが床に並べられていた。かつて北と南を分断していたものの上を歩くということ、日本人にはわからないであろう同じ民族を敵として認識し銃口を向け合う苦しみ。最初に入った時には気がつかなかったが、熱で溶かされた鉄条網は、光を反射し、天井にハッとするほど美しい模様を作り出していた。波、心臓、愛のような、温かさがあるから不思議だ。悲しみの象徴なのに。

 

この展覧会で私が一番好きだった、鳥の修道院。スンヒョンサンという韓国の建築家が構想したもので、模型と映像が展示されていた。鳥のための修道院というコンセプトなのか、映像は鳥目線だった。その躍動感、自分が鳥だったらどんなに気持ちが良い場所だろう。ああ、鳥になりたい、そう思わせてくれるような修道院だった。とにかく気持ちがいい。風が通り、光は踊る。なんて呼吸がしやすいんだろう。モノクロの映像であるのにどうしてこんなに色鮮やかで眩しいのだろう。きっとこの眩しさは、生命の眩しさだ。それでいてぞっとするほど静か。人間だったらこの静かさに耐えられないだろうな。

 

雰囲気として福島のDon't follow the wind展に似ているなと思った。人間の都合で簡単に足が踏み入れられなくなった場所、また人間の都合で死に近い場所、それでいて自然の力強さを改めて感じられる場所。そういう点だろうか。

 

坂茂は何であんなに竹が好きなんだ。 

竹のパビリオンと布と紙の教会の印象しかなかったが、今回の展示で坂茂=竹になってしまった。

 

機会があればもう一度行きたい。

久しぶりに無意識に図録買ってた。

 

たゆたい、生きる

 

思考の雑記。

生きることが知的探求の旅なら、その中で、人を好きになることというのは何なんだろう。

アマゾンで本をみていたら、フェルナンドペソアの不安の書が増補されて復刊されるみたいで、大好きな本だからすぐに予約した。

 

フェルナンドペソアは好きな人が唯一好きな詩人だと昔言っていて、それがきっかけで図書館で思い出したかのように手に取り読みふけってしまったのがはじまり。

 

好きな人の好きな作家を知りたい、好きな小説を読みたいと思うのは、その人の経験したことを少しでも追体験し、その人が感じたかもしれないであろう感情を感じたいからという可愛い理由だと思うんだけど、やっぱり知りたいって一種のI love youだよ。

 

価値のあったり役に立ったりすることで何か告白すべきことが人にあるだろうか?われわれに起きたことは、誰にでも起きたことか、われわれにしか起きなかったことだ。最初の場合なら、珍しいことではなく、もうひとつの場合なら、理解されない。自分の感じることを書くのは、そうすることにより感覚の熱気を冷ますためだ。

『不安の書』フェルナンドペソア

 

肉欲の関係ではなくひとりひとりの人間として愛しあうことってなんて難しいことなんだろう。

 

 

選んだ道が正解か不正解かを悩むのではなくその道が正解であるように努力すべきと前は思っていたけど、でもそれって“置かれた場所で咲きなさい”とほぼ同じなんだよなあと今は思う。私はこの言葉嫌い。置かれた場所なんて受動的な生き方は嫌だし困難な道を選ばなくていいようにするための言葉みたいでいや。決して「楽」な道を選ばないことが私にとってとても大切な意識だから。

 

 

 

最近めちゃくちゃブログ書くな、それぐらい暇なのかと思ったけどそうではない、ただ思考がまとまらない、インプットがおおすぎてアウトプットが日常生活で足りないからだ。

 

思考のログを取ること、大切だ。

 

 

 

追記

 

筆まめになりたい

思考の殴り書き

ああ自分が人間らしい人間で心底よかったなあ。

青は幸せの色だと思う、昔からずっとそう思っている。


わたし、青になりたいなあ。

 

耳からは常に言語が流れこんできて胸には気持ちのミックスジュース、上澄みが沈んでいく、頭はひっくり返したおもちゃ箱みたいにごちゃごちゃ、何かを吐き出したいのはわかるけど何が吐き出されるのか分からないから怖くて飲み込む、気持ちが悪い、吐きたい。吐き出したい、でも怖い。なにも吐き出せなかったらどうしよう。想像していたものが吐き出されなかったらどうしよう。怖い、でも吐きたい、吐き出したい。

その繰り返し、今日はそんな日。

今週はずっと雨みたい。去年はもっと暑かった。これぐらい涼しいのがいい。暑いのは耐えられなくて寝込むから。体が弱くて何も出来ない季節。

 

たぶん一度でも好きになった人っていうのは自分の中でずっと好きで、年月が経つにつれてその好きの濃度が他人の存在などで薄まるだけで嫌いになるなんてことはないんだと思う。

憎むことはあってもね。

 

そんな事ばかり考えてしまう。
やること沢山あるのにね。
出会わなければこんな思考に憑りつかれることもないのに。


「人間関係は化学反応」だとユングは言った。

「一度作用し合ったら、もう元には戻れない」

 

思考は整理できないよ。

 

偽物ってなんだ。嘘っぽいってことだ。じゃあ本物って何?嘘っぽくないって何?それは空間に溶け、ニュートラルにするということだ。場を整えるということだ。華道に似ているなあ。

 

 

 

Esclave d'amour

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人間は生まれながらにして人間であるのではなく、ある社会的規範を受け容れはじめて人間になると言ったレヴィ=ストロースは、人間性の余剰として受け取られていた部分を根源として捉えた。


沢山の人が行き交う様をぼんやりと眺めていると、この世に生を受け、精神を持ち、肉体を与えられ、学び、働き、許し許され家族という単位を作り出し、創造する私たちはなんてかけがえのない存在なんだろう、と漠然と思った。

 

前に、渋谷駅でたくさんの人を見ていると、ここにいる人、一人一人に精神があって人生があるのかと思ったら気持ち悪くなるとつぶやいた。今もそれは変わらない。余りにも凝集された人々、そこにある途方もない人生の移ろいに気持ちが悪くなる。満開の桜が怖いことに似ている。
でも今日は、そんな日々を、人生を美しいと思えたしこの人々には相互に愛し愛される可能性があるのかと思うととても感動して胸がつまったのだった。

 

恋も愛もフランス語ではamourで、代替できる言葉が見つからない。英語ではcrush on youなんて言葉もあるけど
“恋”というあの、日本語特有のはかなさ、美しさ、移ろいやすさ、不完全さ、不安定さをうまく表せるものを私は知らない。日本人特有のものなのかな。恋っていう概念は。

 

概念があるからことばがある。逆に言えば、ことばがないということは概念がないということである。

『漢字と日本人』高島俊男

 


私の恋は、その人への大嫌いも大好きも同じぐらいにあって憎んだり愛したりもするけど、「大好き」その割合が少しだけ多い時点にその人へ対する気持ちの名前だ。



 

イデオロギーと普遍性

 

また火が付き始めた。

とりあえずは、だけど。

しばらく消えないことを願う。

 

 

人は人と関わることでしか変化できない。

孤独から発生する変化なんて想像し得る範囲でしかない。

人が、その人が想像できない変化をーそれが正でも負でもーもたらすのはいつだって自分以外の他人。

一人は好きだけど孤独はあまりいいものじゃないなって、漠然と思っていた。たぶんこういうことだと思う。たぶん。ここで言う“孤独”は世間一般の“孤独”とは違うものだけど。孤独にも種類がたくさんあることは分かるけど今ここで分類して分析していられるほど精神状態はよろしくない。

 

所有と所属ってはたから見たら違いなんて分からないね。

 

停滞は悪だ。思考停止するぐらいなら死んだ方がマシ。一分一秒でも変化し続けていたい。あくまで願望。強い願望。

そんなヘーゲル的人間理解で生きていくことが正解かわからないけど。

まぶしくて魅力的で心揺さぶられる人はいつだって線香花火みたいに、流れ星みたいにどこかへ消えてしまう。

 

焦燥と無気力の狭間に立つ自分はいったいどこにいるんだろう。どこへ向かうのだろう。
主体性のない生き方、あまりにも幼い自分の心に腹が立って悔しくて情けなくて歯を食いしばる毎日。

 

「ぼくのコーデリア!ぼくは貧しい―君はぼくの富だ。ぼくは暗い―君はぼくの光だ。…ぼくは何物も所有していない。なぜなら、ぼくはただ君に所属しているのだから。ぼくは存在しない、ぼくは君のものとなるために、存在することをやめてしまったのだ。君のヨハンネス」『誘惑者の日記』

 

オリジナリティは模倣の先にあると思う。

うんざりするほど模倣に模倣を重ねてやっと見えるもの。

消化するスピードに個人差はあっても。